旧スタッフブログです。
2008年からはKSCEとその連携団体で行った
イベントや活動・相談会といったことの告知や報告
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をしていきたいとと思います。
新スタッフブログ「KSCE stuff diary second」
はサイドバーのリンク集からいけます。
是非見てくださいね。
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こんにちは。七夕に2回目のブログです。
それで、七夕にちなんで、「…に会いたい」にまつわる話です。
先日、『ヘルメットをかぶった君に会いたい』という鴻上尚史さんの初小説を読みました。これは、2005年に生きる語り手が、いわゆる全共闘のど真ん中を生きた女性(それがヘルメットの君)にテレビ越しに恋をし、現在の彼女に実際に会おうとするストーリーです。並行して、この語り手(舞台作家)が書いた、「諫早湾に刺さるギロチンを爆破する」という内容の戯曲に絡んだ事件が進行します。簡単に言うと、とてつもなく大きな力と闘ったり、それを変えたりすることがリアルである感覚に「会いたい」と願っている人々の物語です。
私には、これらの登場人物の「会いたい」気持ちがとても身近に感じられました。
さて、それで、私個人にとっての「会いたい人」は誰かと考えると…。やはり、もはや実際に会っては触れることのできない人達ですね。「会いたい」のに、もう二度とこの世で会うことはできない人達。でも、「不在」だからこそ、余計に強く私の心に生きている人達。お盆より一足早く、「七夕」によせて、それを改めて意識します。
今日も雨の予感。夜はおうちで小津映画を見ることにします。
Manina
それで、七夕にちなんで、「…に会いたい」にまつわる話です。
先日、『ヘルメットをかぶった君に会いたい』という鴻上尚史さんの初小説を読みました。これは、2005年に生きる語り手が、いわゆる全共闘のど真ん中を生きた女性(それがヘルメットの君)にテレビ越しに恋をし、現在の彼女に実際に会おうとするストーリーです。並行して、この語り手(舞台作家)が書いた、「諫早湾に刺さるギロチンを爆破する」という内容の戯曲に絡んだ事件が進行します。簡単に言うと、とてつもなく大きな力と闘ったり、それを変えたりすることがリアルである感覚に「会いたい」と願っている人々の物語です。
私には、これらの登場人物の「会いたい」気持ちがとても身近に感じられました。
さて、それで、私個人にとっての「会いたい人」は誰かと考えると…。やはり、もはや実際に会っては触れることのできない人達ですね。「会いたい」のに、もう二度とこの世で会うことはできない人達。でも、「不在」だからこそ、余計に強く私の心に生きている人達。お盆より一足早く、「七夕」によせて、それを改めて意識します。
今日も雨の予感。夜はおうちで小津映画を見ることにします。
Manina
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無題
私も『ヘルメットをかぶった君に会いたい』を読んでみました。近所の図書館で借りようかと思ったのだけれど、貸し出し予約が4件も入っていて、人気があることがわかると同時に、待っていたらいつになるかわからないと思い、普段小説を買うことの少ない私としては珍しく買って読んだのでした。
で、どうだったかというと、諫早湾の堤防爆破計画の話はまあ置いておくとしても、TVで見た、あの当時のヘルメットをかぶった君に会いたいってさあ、一種ののぞき趣味じゃないのかって気がしました。まったくの同時代の人間は、同じ画面を見ても、そこに移っている女性に「恋をする」なんてことはありえないし、それ自体が嘘臭い。それに「とてつもなく大きな力と闘ったり、それを変えたりすることがリアルである感覚」ってのも、傍観者の作り話だったのではないかと思っています。あの闘争まっただ中にあって、いつも自分の存在を問い返す作業を書かさなかった人たちを身近に知っている身からすると、闘士たちが射程に入れていたのはつねに自分たちの手の届く範囲の問題に誠実に取り組むという姿勢であって、それがあるから大きな力との闘争もリアルだったのですよ。この小説にはこうした「手の届く範囲の問題」がすっぽり抜けていて、その分、白々しさを感じたのかもしれません。言ってみれば、自分でつくった作り話のなかの登場人物に恋しているって感じ?
いまデュルケムの『自殺論』を改めて読み直しています。やっぱりこの人はすごい人だなあ。
で、どうだったかというと、諫早湾の堤防爆破計画の話はまあ置いておくとしても、TVで見た、あの当時のヘルメットをかぶった君に会いたいってさあ、一種ののぞき趣味じゃないのかって気がしました。まったくの同時代の人間は、同じ画面を見ても、そこに移っている女性に「恋をする」なんてことはありえないし、それ自体が嘘臭い。それに「とてつもなく大きな力と闘ったり、それを変えたりすることがリアルである感覚」ってのも、傍観者の作り話だったのではないかと思っています。あの闘争まっただ中にあって、いつも自分の存在を問い返す作業を書かさなかった人たちを身近に知っている身からすると、闘士たちが射程に入れていたのはつねに自分たちの手の届く範囲の問題に誠実に取り組むという姿勢であって、それがあるから大きな力との闘争もリアルだったのですよ。この小説にはこうした「手の届く範囲の問題」がすっぽり抜けていて、その分、白々しさを感じたのかもしれません。言ってみれば、自分でつくった作り話のなかの登場人物に恋しているって感じ?
いまデュルケムの『自殺論』を改めて読み直しています。やっぱりこの人はすごい人だなあ。